白いダリアと蒼い薔薇 緋 7
「痛い……痛いよ……地味に痛い……」
現在は、先程とは違った意味で涙目になりながら、しきりにおでこをさすっていた。
腰掛けているのは古びた石造りの階段で、それが認識できるほど、辺りは明るい。
暗闇の中で駆け出したまでは良かったのだが、思ったよりすぐ近くに通路の突き当りがあった様で、
数歩も行かないうちに石壁と正面衝突してしまったのだ。
水に足をとられがちだったおかげでそこまでスピードが出ていなかったことが不幸中の幸いだったが、それでも痛いものは痛い。
悶絶しながら数歩よろけた先にあった木の扉を押し開けて明るい部屋に入り、今に至る。
が入った部屋は運の良いことに外からの出入りに使うものだったらしく、階段が続く先にある扉の向こうから光が差し込んでいる。
散々暗闇の中を歩き続けて憔悴していたは、扉が薄っぺらな木製と見るやいなや、壊してでも出る事を決意した。
普段なら鍵や別の出口を探してみる気になっただろうが……もう迷いは無い。
ため息を吐きながら立ち上がり、階段を上って扉へと向かう。
ドアノブを握って回してみると、耳障りな音が鳴ったが無事に開くことが出来た。
ふふふ……命拾いしたなドアめ!!
地下から脱出できた喜びで若干変なテンションになったまま、外に出る。
見渡すと傍らの林の反対側、少し離れた所に、さっきまでいた塔が見えた。
その距離が思ったより近く、の身体は無意識に強張った。
まさかこちらを見たりはしないだろうが、全身ボロボロな今追いかけられたら、絶対に捕まる。
焦りと共に脇腹の痛みまでじわじわと戻ってきた気がして、急き立てられるかのように、林の中へ走りこんだ。
林を抜けると、小川が流れているのが見えた。
ようやく落ち着ける場所まで来れたと、よろよろ近付いて、縁に腰を下ろす。
「――いっ!、たー……」
身体を捻ったせいか安心したせいか、脇腹の痛みを急に意識してしまい、手で押さえた。
ぐっしょり濡れているのは地下で水に浸かったからだと思いたい。
怖くて傷口を確かめる気になれず、ここまで歩けたのだから大丈夫なのだろう、と無理やり納得することにした。
ふと、今の自分の格好を見る。
泥水まみれのボレロ、所々破れて血が滲んだスカート、ざっくり切れている手のひら。
見えないけれどきっと髪なんてボサボサだろう。みすぼらしいにも程がある。
……そうだ、目の前に小川があるんだから洗えば良いじゃないか!
「痛い痛い痛い痛い痛い!」
流石に安直過ぎた。
川の水に手を浸しながら、は開始三秒で降参しそうになっていた。
けれども消毒ができないのだからこうするしかない。
頑張って更に五秒間耐えて「私エライよ、スゴイ!」と寂しい独り言で自分を応援しながら、
さてどうやって片手で服を絞ろうかと試行錯誤を開始した。
流石に髪を洗うのは無理そうだ。
手櫛で髪をすきながら、小川に浸した足をぱちゃぱちゃと蹴り上げる。
先程より全体的に湿った服は、太陽が都合よく乾かしてくれそうだった。
脇腹の傷口への対処に困ったは、『怪我した場所は心臓より上にする』やら『強く縛る』といった
残念すぎる応急手当ての知識を総動員させて、結果何が何だかわからなくなり、
結局スカートのリボンをきつく結び直すという謎な処置をしてしまった。
それもこれもあれも全部、カイが脇腹なんて撃ったせいなのだ。
どうやったら脇腹が心臓より上に行くのか。ブリッジでもしてろってか?
意味不明な責任転嫁で気を紛らわせても、燻った気持ちは簡単にはなくなりそうもなかった。
何も撃つ事は無かったのではないか、という憤りと、それだけの事をやらかしてしまったのかもしれない、という後悔がせめぎ合う。
冷静になって考えれば、本人の承諾無しに人間をやめさせたことになる訳で、リクからすれば悲劇なんてレベルを超えている。
本来なら後に小夜のシュヴァリエで幸せだと感じただろうに、それもない。
やっぱり何もしない方が良かったのかも、と弱気になりかけて、慌ててかぶりを振って否定する。
誰のシュヴァリエだろうと、共に生きる相手を決めるのは自由だ。ソロモンがそれを証明してくれたじゃないか。
人の幸福はその人が決めるのだから、私は私の幸福のために行動するだけだ。
リクはあのままでは死んでいた。
小夜がシュヴァリエにしてくれただろうけど、そうなるとディーヴァの花婿に選ばれてしまうに違いない。
アニメ通りに襲撃を仕掛けるであろうディーヴァを、どうやって止められるというのだ。
その時点まで私自身が無事かさえわからないというのに……
思わず吐いた溜息は弱まってきた日差しの温かさと完全にミスマッチで、はひとまずこれ以上悩むのを放棄した。
これからはディーヴァともっと仲良くならなければならない。
すると今日のように話を聞いてくれる可能性が大きくなるわけで、
もしディーヴァのシュヴァリエ(主に長兄と軍人さん)がリクを疎ましく思っても、彼女には逆らえない筈。
そう、ディーヴァさえ味方に出来れば勝てる!序列的に!!
……うーむ、見事なフラグだよね、悪い意味で。
思考が一段落して、ぼけっと水流を眺める。
脚の間を撫でていく水は程好くひんやりしていて、打撲が少しはましになりそうな気がした。
手のひらの傷も乾き始めていたが、こちらは動かす度にぱっくりと割れ、痛みが走る。
実は一番酷い傷なのでは、と思わざるを得なかった。
「…………?」
何分かそうしていると、不意に風に紛れて誰かの声が聞こえたような気がした。
高めの声。……ディーヴァか!?
最早条件反射で身体を強張らせ身構える。が、数秒経っても何も起こらない。
「……なんだ気のせい……か、……?……ってえええ!?」
気を抜いたらすぐコレだよ!水面にディーヴァ映ってるよ!ちゃっかり横に座ってたよ!!
「ディ、ディーヴァ」
「ふふっ、びっくりした?」
「ものすごくした……」
驚いて振り向いた先で無邪気に笑う彼女はかわいいけれど、おかげさまで動悸が治まらない。
それはもう寿命がごっそり削れたよ!
両手で心臓を押さえるように縮こまっていたら、怪我をした方の手を取られ、なんと舐められた。
痛い痛い痛い!結構痛い!
「っ、い」
痛い、やめてくれと言おうとして口を噤む。
もう先程の『お願い』の対価が始まっているとしたら、これぐらいの事で拒否などしていられない。
さてどうしようと考えていると、背後から草を踏む音がした。そちらを向くと、ソロモンが歩いてきていた。
「こんな所に……探しましたよ、。塔から移動したのは良かったですが、あまり離れ過ぎても心配になります」
「あ、はい」
じゃあどうしろって言うんだ、と反論する気力はもう残っていなかったので、曖昧に同意しておく。
彼は「ディーヴァ、」と主に静かに呼びかけると、乾いた血が消えるまで私の手のひらを舐めていた彼女をやんわりと引き離してくれた。
口を離した彼女の方も、リクの血である程度満足していたのか、おとなしく身体を離して立ち上がった。
倣って私も手を濯ぎ川から脚を出して靴を履く。
「大丈夫よ、ソロモン!の匂いがずっと向こうからわかったもの!」
「そうだ、あなた、どこか怪我をしていませんか?血の匂いが……」
上機嫌なディーヴァの台詞ではっとしたソロモンが、今更ながらに私の有様を見つめる。
思えばこの服は上から下までソロモンが用意してくれたものだった。
それを半日も経たない間にここまで台無しにしてしまったのだ、気にならない訳がない。
その上、粗方濯いだとは言え撃たれた傷の出血で汚れているとか……絶対に言えない。
「ボロボロじゃないですか! 何があったんです?」
「えーっと……塔から、……塔で転んじゃって!あはは……ごめんなさい」
目を見開いて声を大きくしたソロモンから視線を逸らす。
落ちたなんて言ったら状況の説明を求められそうで、思わず誤魔化してしまった。
「……濡れているのは」
「あー、それはウッカリこの小川で転んじゃって」
「…………転びすぎじゃないですか?」
ご尤もである。
もしそうだったらどれだけ軽傷だったことだろう。
「ったらおっちょこちょいなのね!」
「……はあ。まあいいでしょう。では、帰りましょうか」
「了解です」
これ以上は言い繕えないな、とゴリ押しの限界を感じてきたタイミングでディーヴァが大雑把に纏めてくれたので、話が打ち切りになった。
助かった、と心の中で呟く。
これから歩くだろうから、傷の痛みも少しは紛れさせる事が出来るかもしれない。
「アンシェルはー?」
「兄さんにはさっき連絡をしました。合流してから車に行きますよ」
「はーい!」
びしっ!!と手を挙げるディーヴァが何だかかわいい。
それを見つめるソロモンの顔は穏やかで、この雰囲気を壊したくなくなってしまった。
傷の説明をするのは、車に着いてからでいいか……
「……アンシェルっ!!」
日差しが夕日に変わっていく中をしばらく歩くと、石橋の向こうでアンシェルが佇んでいるのが見えた。
いち早くディーヴァが駆け出し、飛びつく。
私はと言えば、疲れが出てきたのかそろそろ一歩一歩が重い。
陽が落ちかけて寒くなってきたし、アンシェルに会えて嬉しそうなディーヴァを微笑ましく見ている余裕が無い。
早く車に着かないかなあ、と、それだけを考えながら、静かに息を吸って吐きつつ歩き出す三人の後に続いた。
「サヤに会ったのか」
「……はい」
「ソロモンったら、ふられちゃったの!」
「彼女は、随分と人間社会に執着していました。あれでは……」
「だろうな。もとより和解などありえぬが……これでわかっただろう。彼女らと相容れることは無い。障害は排除するしかない」
「…………そう、ですね」
早く、早く車に着いてくれ。
出来るだけゆっくり歩いても冷や汗が出てくる。
「ふふっ、はもうおねむなのかしら?」
くるりとターンして笑うディーヴァの言葉には、とても返す気分になれない。
浮かべている笑みも心なしか意地の悪いものに見えてしまう。
「ね、ソロモン。はいい香りがすると思わない?」
頼むからこちらに注意を向けさせないで欲しい。
ただでさえろくに喋れないぐらいしんどいのに、滅茶苦茶ゆっくり歩いてるってバレちゃうじゃないか。
「、ちゃんとついて来てくださ……?」
ああ、だから言わんこっちゃ無い。
申し訳ないけれど、「すみませんでした」と謝ることも駆け足で追いつくことも、今はできそうにない……
「……?」
後からついて来ているはずのの足音が徐々に遠くなっている気がして、ソロモンは振り返った。
はいた。少し遅れているが、一応歩いている。だが、その姿が異様だった。
よたよたと覚束ない足取り。
引き摺る脚を垂れるどす黒い血が、地面と靴の間で擦られて土に奇妙な模様を描いていく。
自分を視界に入れているはずなのに、その眼は虚ろ。
何より、いつもなら話し掛ければ何かしらの返事があるが、声を発しない。
これは……危険な状態だ。
「!その血は、」
そう言えば小川で立ち上がった時から、腰に手を当てていた。今では押さえつける様にして強張っている。
疲れたのだろうと思って特に気に留めなかったが、その下に、まさか……
「……っ」
嫌な予感がして彼女の傍まで戻り、腕を掴んで退かした。
痛みからか、息を呑むような声がようやく発せられる。
押さえていた場所は、血でぐっしょりと濡れていた。
何故ここまで放っておいたのか。
理由を問いただしたくても、当のは荒い息を吐きながらこちらを向いているだけ。
ぼんやりとしたその眼を見ていたくなくて、彼女を抱え上げた。
「兄さんこれ! すみません、ディーヴァを頼みます!」
アンシェルとディーヴァを乗せた車を運転していては、時間がかかり過ぎる。
一刻も早く処置をしなければ、と、長兄に車のキーを投げ渡しつつ、街までの最短ルートを思い描いた次の瞬間、ソロモンは地を蹴った。
「あはは!ソロモン、はやーい! もう見えなくなっちゃった!」
「……全く。あのような小娘、放っておけば良いものを……」
危なげなくキーを受け取ったアンシェルが小さく零すと、大げさに手を額に翳していたディーヴァが手を腰の後ろで組み直す。
そしてくるりと振り返ると、含みのある笑みを浮かべた。
「あら、駄目よアンシェル!私、と約束したんだから」
「約束?」
どうも良い予感がしない。
裏付けるかのように、我が主は実に上機嫌で悪戯を告白してみせた。
「ふふっ……アンシェル、私ね、一人シュヴァリエにした子がいるの!」
「なっ!? ディーヴァ、それは本当ですか?」
……正直、予想外の事態だった。
彼女が興味を持つならば宮城兄弟のどちらかだろうが、食事ならともかく、彼女が私の指示無しに自主的な血分けを行うなど、考えられない。
おそらくソロモンも知らなかったのだろう。知っていたらまず報告が来るはずだ。
「ほんとよ! ……ね、駄目だった?怒ってない?」
「……いえ。怒ってなどいませんよ。ですがそのような大事なことは前もって」
「よかったぁ!の言った通りね!ありがとうアンシェル、大好き!」
本当に……本当に余計な事をしてくれる。
新たなシュヴァリエなど今は必要ない。私の目の届かないところで、あの小娘はどれだけの甘言を弄したのだろう。
ディーヴァは私の横にいるのに、事あるごとに話すのは奴のことばかり。
そのうち餌として消えるだろうと放っておいた結果が、これだ。
ちっぽけな人間の分際でちょこまかと目障りな……
ああ、忌々しい。
「ええ、私もですよ、ディーヴァ」
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