白いダリアと蒼い薔薇 緋 4
「うわああああああ! ああああああ……!」
「……?」
声だ。男の子の、声がする。
うっすら目を開けると、ぼんやりした視界の中で人影がうごめく。
ドレス……あれは、ディーヴァだ。じゃあ、もう一人は……?
「ん…………そら? ……じゃない、」
そうだ、あの子はここにいるはずがない。それに、そこまで背は低くない。
ああ、リクだ。さっきこの部屋に入ってきた。
全てがすりガラスの向こう側で起こっているように、はっきりしない。
視界はクリアになってきたというのに、思考がまるで追いつかないのだ。
「ね、えちゃ……っ」
リクの首から垂れた赤い血が、じわりじわりと服の首元を濡らしていく。
どうしたんだろう?痛いなら暴れるだろうに、彼はピクリとも動かない。
眼もどこか虚ろだし、ディーヴァに抱きとめられた身体から、腕がだらんと垂れたままだ。
「…………りく?」
彼に呼びかけたつもりが、思ったような声にならず、囁きとなって消えてしまった。
目的を果たせなかったそれはディーヴァに拾われ、彼女はくるりとこちらを向く。
その口元に、曇った思考を晴らさねばならない、と直感した。
血で濡れている。
リクの血だ。
リクは動かない。
目も開けてくれない。
ディーヴァは、ディーヴァが、リクを、
「ふう。ごちそうさま」
「……ディーヴァ、」
唇に付いた血を舐めた彼女は、しあわせそうに笑むと、壁際に背を凭せ掛けられている自分の所へ歩み寄る。
身体を適当に掴まれて引き摺られるリク。その首は、ガクリと項垂れ揺れるまま、動く気配がない。
……もしも私にこの世界の記憶が無かったら、リクは確実に死んでしまったと思うかもしれない。
自分の時だって結構危ない状態になったのに、止める人がいない今、彼女が彼をどう扱おうが自由なのだから。
でも、私は知っている。リクはかろうじて、生きている。
この後小夜達赤い盾がこの部屋に到着して、戦いを終えた小夜によってリクは助かる。
血分けをされ、小夜のシュヴァリエとなるのだ。
だから、大丈夫。
言い聞かせるように心の中で呟いたは、同時に考えた「その先」に思わず顔を歪めた。
今、リクは生きている。これから小夜のシュヴァリエになるから助かる。
でも……私は知っている。リクが「その先」、どうなるのかを。
それでも、大丈夫……なんて、言えるのだろうか?
「…………、っ」
テレビ画面の向こうで、粉々に砕け散る彼が見える。
今ここで助かる予定の彼は、小夜のシュヴァリエになったが故に、望まない結末を迎える予定なのだ。
「んー、この子もおいしかったけどー……やっぱりのも欲しいわ」
「でも、アンシェルまで『駄目』って言うの」
あの時、リクはディーヴァに捕まるまで必死に逃げようとしていた。
恐怖に身を竦ませて、そのままディーヴァの血を受けて……
たとえその後生まれた双子が幸せに暮らしたとしても、どうしても、やるせないと思ってしまう。
そんな未来には、辿り着きたくない。
だからそのために、できるだけの事をしたい。
「もう、困っちゃうわ! 昨日までは、好きにしていいって言ってたのに!」
とは言っても、私に出来ることは恐ろしく少ない。
まず、戦えない。
これは相手が翼手だからとか、そういう問題ではなく、対一般人だとしても無理な話だ。
自身の身体能力ぐらいは把握している。人を傷つける覚悟が足りないのもわかっている。
そして、御大層な戦略を巡らす事もできない。
これは学校の成績ではなく、頭の回転と豊富な知識の相乗効果で発揮できるスキルだ。
穴だらけの欠陥住宅な作戦を安易に実行できるほど、現実は優しくない。
だから私はシンプルに、問題の原因の方を取り除くしかない。
それも、残されたもっとも不安定な手段、他人への交渉によって。
「あら、はおねむなのかしら? もう、ソロモンが勝手に連れてきたせいね!」
この場合の『原因』は何か。
リクの結晶化。それさえなければ最悪の事態は免れる筈だ。
小夜のシュヴァリエはディーヴァの血を受けると血液が凝固して身体が結晶化してしまう。
結晶化が始まったら、その部分はもう元には戻らない。
末端部分なら思い切って切り落とせるだろうが、頭や心臓なら即アウトと考えて良い。
だからと言って単純に、リクがシュヴァリエにならない、という選択肢は、もう選べない。
私が気を失っている間に彼は血を吸われ、ディーヴァは「おなかいっぱい」などと言っている。
いきなり吸血するほど空腹だったうえでそれだけ飲んだなら、軽傷じゃなく重体に陥っていることだろう。
もし彼への血分けを阻止しようものなら、結晶化以前に失血やら何やらで呆気なく逝ってしまうに違いない。
「そう言えば、サヤ姉さま遅いわねえ。歌が足りなかったかしら?」
この結晶化だが、逆もまた然りで、ディーヴァのシュヴァリエも小夜の血を受けて結晶化する。
カールも、ジェイムズも、……ソロモンも、それが致命傷になる。
けれど思い起こせば、ほぼ事故に近いソロモンを除き全ての翼手が、小夜と『戦って』血を受けているのだ。
即ち、相手が味方だったなら、小夜は刃を向けないのではないだろうか?
リクは小夜にとって大事な大事な家族だ。
まさか敵のシュヴァリエになったぐらいでその情は薄れないだろう。そうだと信じたい。
「ディー、ヴァ……」
「なあに?」
この作戦は、ある意味小夜の宝物を人質にとる様で少し心が痛む。
いくら悲惨な未来があるとは言っても所詮は私一人の記憶に過ぎないわけで、
小夜達からすれば外道な選択肢に見えるかもしれない。
でも、それでも抗いたいのだ。完璧に敵扱いされようとも、リクの運命が確実に変わるなら。
……ただし、無理のない範囲で。
これ重要。だっていざという時、ディーヴァを止められる自信が全く無いのだから……
アイアムニンゲン!ヒリキ!ゲキヨワ!!
「その子……なんだけど」
「? この子がどうかしたの?」
へたり込んだ体勢から精一杯腕を伸ばし、ディーヴァのドレスの裾を掴む。
弱々しい力だったが気を引くことは出来たようで、しゃがみこんで目線を合わせてくれる。
ああ、捕まれてたリクが頭を打ち付けて痛そう……あれでも起きないとはやっぱり危険な状態だ。
会話もろくにしたことが無いディーヴァ相手にどこまでお願いが出来るかはわからないけれど、
やるしかない。私がやらずに誰がやる。
駄目だったら……考えたくないけど、より望み薄なソロモンに、対リクのストッパーを頼まなくてはならない。
「その子を……シュ、えと、助けて欲しいの」
シュヴァリエ、と言いそうになったがギーの言葉を思い出す。
知るはずのない単語は自分から言えない。
「助ける?」
「そのままじゃ、死んじゃうし……えっと、あー……ゆ、輸血とか、出来ないかな」
「もう飲んじゃったから無理ね!」
……そうですね。大体あなたのせいですもんね。
あ、諦めないぞ!まだいけるはず!
「で、でもほら、ディーヴァって何か色々できる、らしいし。
私、元気なこの子と話したり、友達になったりしたかった、というか……どうにか、できないかな?」
「色々……んー……シュヴァリエにすれば出来ると思うけど」
何だこのお粗末な誘導は。あからさま過ぎてヤバい。
ここにアンシェルとかソロモンがいなくて本当に良かった。こんな体たらくだから頭脳戦は嫌なんだ。
「なあに、。この子が欲しいの?……でも駄目よ、アンシェルに怒られちゃう」
「そんな……」
うう、やっぱりそう簡単には聞いてくれないか……
しかしよりにもよってアンシェルが障害になるとは思わなかった。
確かに奴は新しいシュヴァリエなんて認めなさそうではある、主に嫉妬を理由に。
……何だかムカついてきた。心なしか身体の倦怠感も少しなくなってきたし、たたみかけてやる!
「アンシェル、さんの言うことなんて聞かなくていいよ!」
「え?」
「シュヴァリエ、っていうのにしたら、この子は助かるんでしょ?助かるのは良い事だよ!」
「そうなの?」
「そう!それにあんなヤロ、げふんげふんあの人はディーヴァがちょっとイタズラしたぐらいだったら許してくれると思う!」
「う〜ん……そうねえ……」
あと一押し!決定的な何かが欲しい!持ってないけど!
「わ、私が責任……持てる気がしないけど頑張るから!だ、だから、」
「いいわよ!面白そう!」
「えっ?」
何だ何だ。この人は今「いい」って言ったのか?
OKってこと?リクをシュヴァリエにしてくれるの?……マジで?
「最近新しい子を迎えてないし、カールもどっかに行っちゃったし退屈なの。
……それに、この子をシュヴァリエにした時の姉さまの顔、見てみたいわ……ふふ」
「じゃ、じゃあ」
「ええ、のお願い、聞いてあげる。アンシェルに怒られたって気にしなーい」
「あ、ありが」
「だけど、これからはずうっと傍にいてくれなきゃ駄目よ!血だって飲ませてくれるわよね?」
「………………うん」
「やった!嬉しいわ!アンシェルもソロモンもアレンも、誰にも邪魔させないんだから!」
「……(リクのためリクのためリクのため)」
あまりにトントン拍子で進むものだからうっかり感動しかけたけれど、同時に私の身柄までリズム良く確保されてしまった。
いや、いいんです。リクが助かるなら……
助かるなら……
ああ、やはり血の価値は相応なんだね。
「さて、じゃあさっさとやっちゃいましょ!」
ディーヴァはぱちん、と手を合わせる。
そして流れるような動作で自身の手首を切りつけると、垂れた血を口に含み、
立ち上がり様に無造作に床に転がるリクの身体を抱えて……
……うん、絵になる。血塗れでさえなかったら、神々しささえ感じたかもしれない。
「ん……はあ。これでよし、っと」
「で、出来た……?大丈夫?」
「ええ」
あまりにもあっさり過ぎて、実感が持てず、思わず確認してしまう。
微笑んだディーヴァが「いい子ね」とリクの頭を優しく撫でているので、取りあえずは成功したのだろう。
「よかった……」
「あっでも、久しぶりだったし、血分けは失敗することもあるから……あら、大丈夫そうね、良かった」
「えっ?」
ほっとして息を吐いていると、リクの顔を覗き込んだディーヴァがくすくす笑う。
おはよう、私の小さな騎士さん?
見れば、彼の閉ざされていた瞳が開いているではないか。
こんなにも早く意識が回復するとは思っていなかったので、思わず良く見ようと立ち上がった。
二人の下へ一歩踏み出そうとした瞬間、その身体がびくりと大きく波打った。
「……っあああ!ああああああァああっ、ガアぁあッ!!」
「うわあっ!?った……!」
あまりに突然だったので、驚きに体勢を崩してしまい、床に逆戻りしてしまう。
……俗に言う尻餅という奴だ。
なんとも情けないが、びっくりしすぎて硬直した私は縮こまった格好のまま動けず、
二人を凝視しながら、ざりざりとした石造りの床の上で固まっているしか術は無かった。
「ん、駄目よ。いい子だから、我慢しましょうね……」
「がああああ!あああ!っガハ、かっ……」
リクの目は見開かれ、口からは獣のような叫びがひっきりなしに飛び出し、
その身体はここではないどこかへ逃げ出したいのか、めちゃくちゃな方向へ力いっぱい跳ねている。
放っておけば床をのた打ち回るだろう、彼の小さな身体は、ディーヴァによって雁字搦めに拘束されていた。
苦しそうな彼の悲鳴と相まって、自分がディーヴァに願ったことの意味が、突きつけられているかの様だ。
彼はもう人間ではいられない。
ディーヴァからも逃げられない。
それは果たして、ヒトのままここで終わったり、ディーヴァのつがいとして終わったりするより、
しあわせ、だろうか。
「あああ……」
「そう、何も怖くなんて無いわ。だってあなたは私の、」
「……!!」
消え入るようにリクの咆哮が途絶え、瞳が再び閉じられ、身体は糸が切れた操り人形さながらに動きを止めた。
優しげな眼差しで尚も語りかけていたディーヴァが不意に、口を噤む。
怪訝に思っているうちに遠くから響く音が、の耳に届いた。
今なら聞こえる、それは足音だった。先程のリクの絶叫を耳にして、駆けつけたのだろう。
「……リク! いるの? ……返事してっ!!」
「…………ふふ」
うっそりと微笑んだディーヴァは気を失っているリクの身体を崩れかけた壁に凭れ掛けさせ、部屋の入り口の方へ振り返る。
そのタイミングで、古びた扉が押し開けられた。
-- + ----------------------------------
Back Next
Top